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きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる船がある  正岡豊


短歌刻々・04/十一月



_________ 歌の喫茶室 __________



  霜月/お客さま  森 和子さんの感想(船)


きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる船がある
正岡豊

繰り返し読んでみて ハタと戸惑ってしまいました。
”なしとげられぬことのため” となっていて、この”きみ”は まだこの世に在るという事だからです。
とすると”もえさかる船”も やがて燃え尽きて”天に昇華する”のではなく、決して交わる事の無い並行線上、しかも陸の”きみ”と海の”船”は行くことも来ることもできない距離をおいて、やさしく燃え盛り続けるのです。
 人は生きている限り、どの様な状況に置かれても そこで自分の世界の中での幸せ、夢、希望を見出し築き上げる事が出来るものだ と気付かせようと沖の船は”やさしくもえさかる”のでしょうか。

表記が「舟」の森さんの感想もあります。
→感想(舟)



―――1941年生 音楽家 歌歴なし―――
たいていの事は 熱意さえあれば
 やれば出来る と思っています。

森さんのホームコンサートの様子です。
→お花見とツィターの集い



__マスター/okumura __________


以下、正岡さんのこの歌についての奥村の率直な思いを綴らせて頂きます。

@  この歌はわたしには分かりません。従って、この歌についての言葉を発することは出来ません。

A  感動の表現態について。

感動、つまり、歌の心・内容・世界については全体として、あるいは局部の一字一句に至るまでベストの表現を追求すべきである。短歌の表現とは、その短歌のイデアの実現である。例えば一首のある部分において「われは」が的確であるなら、それを実現すべきであって、「われが」とか「われの」であったら、もうその一点だけでその作品は緩み、傷ものである。そしてわたしは傷もの短歌を究極的には認めることは出来ない。以上が表現に関してのわたしの基本的な考え方である。

来月発売の「NHK歌壇」2005年1月号の〈自選五十首〉に付したミニエッセーをお読み頂きたい。ミニ歌論として「表記のレトリック」について書きました。つまり、上に述べた内容を既に述べてあるわけです。

ミニ歌論、つまり「表記のレトリック」の一文を正岡さんにもお読み頂き、正岡さんのお立場からの感想が頂ければ幸いに存じます。


 奥村晃作 / 歌人 



   「舟」と「船」      正岡豊


きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある
(歌集『四月の魚』所収)

という歌について質問のメールを受けた。「船」と書いてあったのを見たのですが、とあるので歌集で確認すると「舟」である。正しい正しくないでいうとそうなるのだが、なんだかどっちでもいいような気がする。
 最初に書いたときの原稿はもうないから、どんな歌といっしょに書いたのかおぼえていない。今も「もえさかる」、を「燃えさかる」、と最初打ってしまった。
 この歌の背後にはたぶん自作では、

 みずうみに舟出す 舟に火をつけて出す 薄氷くだきつつ出す

 酩酊船火に包まれて夢に消ゆ 狂うとも吾は吾を旅するのみ
(両者とも1982年前後の旧作品)

の二首がもとにある。それらの無意識の完成型が、最初の一首だということだろう。

  高柳重信の句

  船焼き捨てし
  船長は

  泳ぐかな


の句がもとにあることはもちろんだし、さらにここでの「なしとげる」という言葉は、大島弓子が「ジョカへ!」の中で引用したゲーテ「ファウスト」のラスト近くの訳文、

  すべて過ぎゆくものは ただ姿なるのみ
  足らざるものここに満たされ
  名付けがたきものここになしとげられる
  永遠に女性なるもの
  われらを天上に引き寄すなり

からの引用となる。この歌では「なしとげられないだろうことが決まっている」という風に変形されているのだが。この訳文が誰のものかはわからなくて、いくつかの翻訳にあたってみたが、似ても似つかぬ訳文ばかりでそのうちさがさなくなった。
 もともとこの歌は、ただの一回切りのプレイとなった朗読シナリオ「スワン・ソング」のラスト寸前、ビリー・ジョエルの「ピアノマン」のコーダにかぶさるように女性の声で読まれたのが初出といえば初出で、そういう意味では「船」と聞き取られようが、「舟」と聞き取られようがどちらでもいいように思っている。「浮音」とか書かれたらそれはちょっと違うというけれど。
 歌会に出したことはないが、歌会の批評では、「なしとげられぬ」という語の不可解さや、誰が誰にいってるのかわかりにくい等、マイナスの要素の多い歌で、それでも歌集に残したのは「韻律のデリカシーの極限の形態」を身もだえるように恋い慕っている紐状の生命みたいなものが歌から見えるようだからか。
 いま繰り返し読んでいると、小松左京の「結晶星団」「花形星団」といったハード系のSF短編なんかも想起されてくる。気が向いた方は復刊されてる文庫などで読み比べてみてもらいたいと思ったりする。

――プロフィール――
1962年生まれ。歌人としても作品を発表している。現在、短歌誌「かばん」同人。
第四回俳句空間新人賞受賞。著作に歌集「四月の魚」(まろうど社・刊行)。


天象俳句館
YUTAKA MASAOKA ホームページ
http://homepage2.nifty.com/masaoka/index.htm




   私のイメージ      みの虫

 今回は表記について、はからずも問題提起をした形になりました。

きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある
正岡豊

 この歌は私の好きな歌の一つですが、一読やさしく燃え盛る「ふね」のイメージが浮かびました。その「ふね」はどういう訳か舟という小さな手漕ぎのイメージではなくもう少し大きな、窓があったりする船でした。
 書作品にするにあたり、「ふね」が「船」ではなく「舟」だということが解りましたが、私はどうしても「船」にこだわりました。それは夢は一人のものじゃなく、それが実現するには多くの人の夢もまた共に必要なのだという思いがあり、情緒的な舟のイメージでは乗せ切れず船のイメージになっていたのだと気づいたからです。
 ただこの歌は「なしとげられぬことと」、「やさしくもえさかる舟」との関係が曖昧で解り難くなっているのですが、私は根が単純ですから夢が乗っていると思ってしまいました。
 そこで正岡さんにメールで確かめたところ上記のように朗読用に作った歌で「舟」でも「船」でもいいと言う事なので「船」で書かせていただきました。
 私の実験的申し出に、さいわいというか短歌朗読という面から正岡さんはこころよく応じて下さいました。またゲストの森さんには「船」と「舟」、2つの感想を寄せていただきました。表記の違いからくるイメージは違うようでしたが一首から受ける印象に大きな変化はないように思いました。
 「奥村さんの率直な思い」も大変興味深いものでした。私の読みを押し通す事からいろいろな議論が出来そうで、ご覧の皆様もご一緒にこの問題についてお考え戴けたら幸いです。短歌のタブーかもしれない試みにお付き合い下さった森さん、正岡さん、奥村さんにこころより御礼申し上げます。


 今回の拓本は技術的に問題ありませんが拓本コンクールでは墨が均一でないので失格となります。表記のことも含め皆様にはどのように感じられたでしょうか。書も拓本も自分の解釈で作品化して行きますのでお楽しみいただければ幸いです。





奥村晃作 さんのホームページ

奥村晃作短歌ワールド
電脳版個人誌・現代短歌の発信サイト!

   http://www5e.biglobe.ne.jp/~kosakuok/index.html


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